鉄道研究部

  • 鉄道に関する研究発表、鉄道の見学会・撮影会、夏休みの鉄道旅行などを実施
  • 機関誌「Whistle Stop」を発行

1999年度

  • 地歴部と鉄道研究部が合併し社会部となる

1996年度

今年度の鉄道研究部は、神戸市電の廃線跡をたどる作業に終始しました。
“廃線跡をたどる”という作業は、古今東西、森羅万象、有象無象の『鉄ちゃん』達が一度は体験する地道な作業です。
そんな作業のため、阪神大震災後二年目を迎えた被災地・神戸に乗りこみました。
神戸市電は、現在の阪急三宮駅付近を中心に東は石屋川(現在は阪神電鉄の車庫があり、ここも震災の被害を激しく受けた所です。)西は須磨・板宿に至るまでを縦横無尽に走り抜けた路面電車です。
昭和四七年に廃線に追い込まれた神戸市電ですが、その足跡をしのばせるものは、ほとんどなくまた、市電にまつわる文献もそう多くもなかったので、かなり調査に手間取りました。
-通常『鉄ちゃん』と呼ばれる生き物達が繰り広げる作業には、目に見える廃線跡が不可欠でありまして、彼らは苦労の末に見つけたレールの枕木や、プラットホームのブロック塀に二喜一憂するという特徴があるのです。
市電の歴史については、小誌『懐かしの神戸市電』にまとめ、文化祭ではさらにコンパクトにまとめた市電の歴史をコンピューターで披露しました。
文化祭は、概ね好評で、在りし日の市電の姿を知る人から「懐かしい」との声を頂きました。
モーターライゼーションの波に呑まれる形で全国数々の路面電車が私達の生まれる前に廃止されました。
けれども、ヨーロッパ諸国では都市における『車社会』の限界を感じ始め、積極的に路面電車を都市計画に取り入れています。日本の各都市でもマイ・カーの多さが交通機関をマヒさせている傾向があり、そろそろ路面電車などの公共交通機関を見直してもいい時期ではないでしょうか?
毎年恒例の夏合宿ですが今年は、東京・軽井沢方面へ足を運びました。(マスタリー第19号p192-193より・文責:阿部礼)


1995年度

今年、全ての原点と言える出来事が年明け早々起こってしまった。それは阪神大震災である。
交通網がマヒし、新幹線の高架がいとも簡単に崩落した。それにともない、阪神間の各鉄道がストップしたことはまだ記憶に新しい。本年度の鉄道研究部もここからスタートした。
地震直後、阪神間にある各学校では始業時間を遅くするなどの処置がとられた。それは言うまでもなく通勤(通学)の手段である鉄道各路線の寸断に起因した。各鉄道会社は、復旧を目指し工事を着々と進めてはいたが、一時的に“押しくら饅頭”に溢れる日常の通勤光景が見られなくなってしまった。
そこで、我々はそんな日常の光景が再び戻ることを期待し、『通勤・通学』をテーマに掲げて、被災地と化した各沿線における調査を始めた。
また、昨年鉄道研究部で採り上げた『鉄道と社会福祉』を念頭におき、特に阪神大震災により崩壊した、阪急三宮・伊丹、JR六甲道・新長田各駅において、駅の障害者設備の現状を調査した。
詳しい内容は、文化祭に合わせて発行した部誌『痛勤・痛学と阪神大震災』を御覧あれ。
最後に部にとって悔やまれる事態について一つ。
今年は特に入学生向けのクラブ紹介に力を注いだ。知る人ぞ知るアノ人を折りまぜてのクラブ紹介は、場内大いなる関心をよび、大成功を収めたのだが、何故かからっきし新入部員が現れなかったのである。クラブの存続が憂慮される今日この頃である。(マスタリー第18号p232より・文責:浜田泰彦)


1994年度

年間活動表
3月 鉄道研究部連盟 春期合同親睦旅行
4月 文化祭「鉄道と社会福祉」展 準備開始
5月 阪急電車本社訪問(施設課)メインストリーム協会訪問
8月 部員有志 「障害者甲子園」 への参加 夏期合宿 新潟・磐梯猪苗代湖
10月 「人に優しい鉄道づくり-鉄道と社会福祉」刊行
11月 朝日新聞全国面に掲載される 11/2夕刊 文化祭展示「人に優しい鉄道づくり-鉄道と社会福祉」展(図書サークルとの合同 部長賞・銅賞受賞)
12月以降予定
鉄道研究部連盟 冬期合同親睦旅行
鉄道研究部白書’94の発行
春期クラブ合宿
関西私学鉄道研究部連盟
創立一周年記念総会

この一年間鉄道研究部は、人に優しい鉄道とは?を追求してきた。これは、今迄取り組んできたNewer Technologyとは少し方向が違い、現在日本の鉄道は、障害者にとって大変利用しにくいものであり、重要で且つ早急に解決なされなければならないという事に気付き、関西圏の各鉄道会社の障害者対策についてを中心に調べた。文化祭では、実物大の阪急車両やスロープを作り実際に車椅子体験をして貰った。この取り組みは、これからも継承して行くつもりである。今後の調査内容の充実と鉄道研究部の発展を期待すると共に、今回の調査で協力してくれた方々にこの場に於いてお礼を言わせて貴います。
又、「人に優しい鉄道づくり」「鉄道と社会福祉」は、一部三〇〇円にて発売しております。詳しくはクラブ部員まで。(マスタリー第17号p154-155より・文責:東中綱利)


1993年度

一九九三年度関西学院高等部鉄道研究部業績報告
昨年度の文化祭の数日後に、部長の任が浜村直之から東中綱利に引き継がれた。東中綱利が、鉄道研究部再建後の第二代部長に就任したということになる。
そして三月に、昨年度までお世話いただいた川本宏夫顧問が写真部へ異動されたので、四月より宮寺良平教諭に顧問に就任していただいた。
夏、私達は夏期合宿を実施した。第一・二学年部員は第一次合宿として九州にて、第三学年は第二次合宿として四国にて展開した。その「第一次合宿記」が、文化祭で無料配布した機関誌『STATION 第5号』に掲載された。第二次合宿記は…その締切に間に合わなかったために掲載できなかった。
文化祭では、これまでになかった企画が続々登場した。ひとことで述べるならば、それは「視覚化革命」である。マルチメディア(マッキントッシュは特記すべきであろう)を利用することが可能となり、これまでの活字のみの表現から、ビジュアルを取り入れた表現ができるようになった。これによって、機関誌製作技術が大きく向上したほか、展示会場においても多映像の展示ができた。マッキントッシュを使用したクイズでは、顧客を楽しませることができたので、成功だったと思っている(昨年度、マッキントッシュを使用して、機関誌『関西学院高等部鉄道研究部によるリニアモーターカー理論』を製作したが、今年度ほど充分に活用できなかった)。私達の間では、これを「一九九三年の視覚化革命」と呼んでいる。
また、今年は“鎖国”解除で“開国”した。他校に積極的に接触を行い、「京阪神高中学校鉄道研究部連盟」を発足させた。灘高校鉄道研究部、関西大学附属高校鉄道研究部等との協議で、現在、共同機関誌『テールライト』を刊行する計画にまで至っている。
「革命」だ「開国」だと、日本史に例えると、まるで明治時代の幕開けのようだが、日本のその後は(一度は世界大戦でトヅボにはまるが、さらにその後は経済大国となって)明るいのは読者諸氏もご存じの通りである。おそらく、鉄道研究部の今後も明るいのだろうと推理される。
今年度の文化祭では第十一位に終わってしまい、一昨年(銀賞受賞)や昨年(銅賞受賞)と比較され、悔しい想いが部員ひとりひとりに残されているが、また来年度を目指して研究に励みたい。取り組みたい。一九九一年春、鉄道研究部を再建した三人の新入生がいた。その三人である浜村直之(前部長)、山下修平(前副部長)、染川正勝(元副部長)と、黒田智哉、三浦隆裕は高等部を卒業してゆくことになるが、五人が口を揃えるようにして「これからも鉄道研究部の途切れることのないことを願いつつ、見守っていきたい」と語る。
来年度の活動に期待されたし。ただそれだけしか言えない。(マスタリー第16号p332-333より・文責:浜村直之)


1992年度

今年度は、文化祭では銅賞に終わり、昨年の銀賞に比べると後退したが、一年生の新入部員二人を加え、活動そのものは昨年度よりもさらに充実したものとなったと確信している。
新年度の活動が始まって早速、文化総部クラブ紹介においてアピールとビラ配布を行った。鉄道模型のほうも昨年度の二倍に拡張すべく4月には製作開始。5月2日には機関誌『STATION』第2号を発行した。
夏休みには8月7~8日に、東海、中国地方2府7県に及ぶ無謀ともいえる合宿『MOON LIGHT』を実施。当初3日間の予定であったが台風で途中切上げを余儀なくされた。費用はたったの4520円。9日には阪急電鉄スタンプラリーにも参加した。なお、この合宿に合わせて合宿誌『MOON LIGHT』を発行した。夏休み中には文化祭で展示した「リニアモーターカー」に、ついてその概略がまとまった。また模造紙の作業にも着手した。
二学期開始直後の9月7日には機関誌『STATION』第3号を発行。これは合宿記がその中心をなしている。9月中旬には鉄道模型もその殆どが完成した。いよいよ文化祭へ向けての大詰めである。英語力判定テストや中間試験といった障壁もあったが、文化祭では『STATION』第4号と『リニアモーターカー概論』の2冊の発行が決定。苦しい作業が始まった。何しろ、前者は60頁、後者は40頁に及ぶものだったからである。なお、これとは別に、9月20日には「国鉄尼崎港線廃線跡探訪ツアー」としてJR塚口駅~阪神出屋敷駅間を現地調査した。
中間試験が終了し、文化祭まで残すところあと一週間余りとなり、完成に向けて全力を注いだ。コンピュータ技術を駆使した『リニアモーターカー概論』の編集に予想以上の時間がかかったことや、膨大な模造紙の量のため文化祭前日の準備は午後11時半までに及び、当日は午前5時半集合という強引さをもって模造紙70枚、機関誌600部配布の展示は何とか完成した。テーマは「リニアモーターカー」、「日本鉄道史」を骨格とし、「合宿記」、「激動の鉄道’92」を模造紙で紹介したほか、鉄道模型展示、ビデオ『世界の車窓から』の上映、さらにはウー口ン茶と紅茶のサービスまで行った。
これだけの努力の結果が銅賞に終わったことは残念ではあるが、見た目の派手さが偏重され、文化的活動が軽視される現代の世の中にあって致し方のないことでもあることを痛感している。もとより、我々の方にも内容のレベルが向上したがそれに見合った適切な解説が欠如していたことなど反省すべき点も多くあり、それを見い出せたことにも意義があったと思っている。これでも文化総部内では一位であったし、小規模な部にあって、何よりも一人一人に課せられた量が格段に多く、かつそれをなし遂げたことを誇りにして、来年度の活動に向けて進むべきであると考えている。(マスタリー第15号p199より・文責:浜村直之)


1991年度

(はじめにひとこと)
休部になっていた鉄道研究部が、活動を再開しました。読んで頂ければわかりますが、彼らの意気込みと頑張りは驚くべきものでした。今後の鉄研へのさらなる期待と、他の文化部へ発破をかける意味をこめて、この『鉄道研究部白書』を、少し長いですが、掲載します。

鉄道研究部 業績報告

第一章 再建と初期活動

平成三年四月五日、関西学院高等部に二八四名の新入生が入学しました。
そして一二日、その中の三名が「鉄道研究部」を再建しました。
顧問に川本宏夫教諭をお迎えし、部室は前・映画研究部室を使用させていただくことになり、三名での始まりとなりました。活動日は週に4回 (月・火・木・金曜)と決め、4月に入学して早速ながらも、鉄道研究部は活動を開始したのです。
しかし、4月に再建した為、部費が出るか否かという、経済面での対策に当初困難な状況でありました。「部員が五名にならなくては部費がおりない」と何度も言われ、私達は部員急募に力を注ぎました。そして一名、また一名と、何とか五名となり、部費13000円を収入とすることに成功したのです。
四月十六日の部内総会で、二七日の取材案が提出きれました。場所をいくつか検討した結果、大阪弁天町の交通科学博物館としました。またその総会で、年刊機関誌『Whistle Stop』の斬新な書名変更案が提出され、『STATION』という単純ながらも鉄道を示すに相応しい書名となりました。
私達は四月より、鉄道模型のNゲージ・レイアウトの作成を考えていました。これは大作業となることを部員一同確信していたため、覚悟の上でした。実際、その後苦労したことは言うまでもありません。)
四月二七日、予定通り、大阪弁天町にある交通科学博物館に見学に行きました。多くの部員は、過去に見学した経験のある者であったので、あまり感心することなどはありませんでした。
その後、機関誌「吾が鉄道空間」「GESELLSCHAFT」が度々発行され、機関誌 『STATION』の内容も着々と進んでいきました。
しかし五月一四日、滋賀県の陶芸の町・信楽を走る信楽高原鉄道で大惨事が起こりました。それはJR車両との正面衝突事故でした。私達は早急、「検証説明会」を開催する予定だったのですが、その時は中間試験中。試験期間の終わった後、五月二七日に「信楽高原鉄道事故検証説明会」を開催したのです。

第二章 中期活動は暑さの中で

「信楽高原鉄道事故検証説明会」も無事に終了し、私達は鉄道模型レイアウトの作成にかかりました。ボードを購入、線路を配線、固定する。また、夏休み中に考えている夏期合宿についても総会で話し合いました。結果、名古屋方面の鉄道を調査するということに決定しました。顧問の川本教諭に報告すると、先生から「その日から英国に行く」と聞き、前身「鉄道研究会」創設初代顧問・曽山一夫先生 同学院中学部・音楽科教諭)に引率していただくことになりました。
夏休みに入り、鉄道模型レイアウト作成に本格的に取りかかり始めました。固定した線路の回りにトンネル (山)、丘などを作るため、紙粘土との「格闘」が始まりました。模型作成の過程では、この作業が最も大変でした。夏休みが終わる頃、ようやく、ボードの半分に紙粘土が完成しました。
合宿では名古屋方面ということで、樽見鉄道(株)本社を取材しました。また近鉄「アーバンライナー」DX席など、多種多様な列車に乗りました。これも良き経験の一つだったと思います。
夏休みが終わり、私達は二学期を迎えました。「模型は文化祭に間に合うのか」不安でした。しかし、あと二ケ月、あとニケ月と部員一丸となって、文化祭に立ち向かうのです。

第三章 後期活動I「文化祭に間に合うのか」

九月に入ったものの、まだ残暑の九月でした。九月に入ってから、これからの行動予定を総会で話し合いました。①鉄道模型の完成(この時の状態では間に合うように思わなかった)、②模造紙の完成(まだ全く手を付けていない)、③機関誌『STATlON』原稿完成と多量発行(三〇%程完成)の三点でした。
とにかく①が完成するかが唯々心配で、模型の作成に全力を投入することにしました。
こうなっては週四日などとは言えず、週六日(月曜~土曜)となりました。毎日、紙粘土との「格闘」が続きました。こうして、ようやく秋を感じるようになった10月へと入っていくのでした。一〇月、残り一ケ月と文化祭は迫ってきました。模型はどうやら完成できそうに感じられました。だから、作業を並行して、模造紙書込作業に入りました。今年の文化祭は、展示会場内を模造紙で埋め尽くそうと考えていました。一学年五名による展示としては、そのような展示をして、ただ見学に来た方々を驚かせることしか出来なかったのです。模造紙も徐々に進行、展示について考案する必要性が出てきました。展示会場内をパネルで如何に仕切るか」、感型をどのように展示するか」を考えました。そして、文化祭週間をいよいよ迎えることになるのです。

第四章 後期活動II「文化祭週間突入!」

一〇月三〇日放課後、文化祭週間に突入しました。いよいよ残り五日間と迫る中、部員の顔には汗、汗、汗……。パネル運びなど、労働力のない少数部員の部では、力仕事には困りました。結局は五名でパネルを展示会場に運びました。
展示会場に、完了した模造紙、もう少しで完成の鉄道模型レイアウトを部室から運び込み、いよいよ大詰めとなりました。しかし展示会場で模造紙を書き、模型を作り、夜は午後七時三〇分まで、毎日頑張りました。
十一月三日、前日となり、最終段階に入りました。明日、見学に来られる方々へのサービスの烏龍茶も購入に行き、また、模型も完成し、模造紙を残すのみとなりました。その日の夜、午後九時三〇分頃、模造紙も完成し、いよいよ明日となったのです。
十一月四日。文化祭当日。準備は出来たものの、集客に対する不安が募りました。開会の午前九時。展示会場ではラジカセの最大音量で機関車の汽笛音を鳴らしました。展示会場は集客的には悪い場所ではありましたが、呼込み、集客に努めました。機関誌『STATION』も、皆さんの手に。展示会場に入れば、鉄研部員がお茶をサービス。見学者を最大限にもてなしました。信楽高原鉄道、島原鉄道への義援金は一三、八二四円も集まりました。
午後三時三〇分、無事に展示終了。再び、最大音量で汽笛昔を鳴らしました。
翌日、後片付け。何とか片付き、無事に終わったと思いました。
午後二時の全校生集会で、鉄道研究部に次代への画期的な出来事が起こりました。「銀賞 鉄道研究部!」、私は耳を疑いました。号泣しそうな瞬間。

第五章 回顧と次代への期待を

思い起こせば、この七ケ月間、部員一同よく頑張ったと思います。それは一人一人の努力を評価したいのです。多人数の部員を持つ部では、ともすれば全体の成果のみで評価しがちなものです。しかし、私達は各人の努力で、それに対応しました。
志賀太郎教諭(地歴部顧問)は私達に常に「競争しなさい」と教えられます。それは会社同志の販売競争等と同じで、競争することによってそれぞれが発展することを教えられているのだと思います。私達は再建時以来、地歴部の次の順位を目指し、頑張って参りました。これからは同学年同志の競争となります。関学の大いなる文化を更に発展しなくては、私達の文化総部の意味がないと思うのです。鉄道研究部は、これからも文化総部の発展に貢献することを惜しまない決心であります。
今後、文化総部がどのように活性化してゆくか、更に検討しなくてはならないと思うのです。(マスタリー第14号p159-162より・文責:濱村直之)


1986年度

今年も例年通り部員数が少ないのに泣かされたのだが、「国鉄改革」を調べるという目的のため、なかなか活動も盛んになった。
今年は春の撮影会をとりやめて、例年より合宿の構想をよく練った。例年、この夏期合宿と文化祭展示の関わりが何もないので、ぜひ合宿を文化祭展示に生かそうと思い、そうしたのである。夏期合宿では、行先を東北地方とし、路線や列車の役割・性格を中心に調査した。また、秋田・盛岡・仙台各鉄道管理局を訪問し、経営収支や経営努力など、六二年四月にひかえた「分割・民営化」の指針を聞き、列車を自動的に管理・制御するCTCというシステムを見学した。また、三陸鉄道本社にも訪問し、民営鉄道としての努力・成果などを聞いた。その合宿の成果は、部報と展示に生かすことができ、久し振りに興味から離れた問題をテーマとすることができた。また、従来の路線別のテーマとして、電化で消える福知山線の各列車にスポットをあて、部報に記載したと同時に写真を展示した。模型も例年より手のこんだものとなったので、とりあえず成功の年だったと思う。ただ部員が少なく、展示が雑になったのが悔やまれる。
最後に、いろいろと指導・世話をしていただいた顧問の中島先生・光国先生、その他OB諸氏に深く感謝の意を表したい。(卜部敬康)
(マスタリー第9号p191より)


1975年度

  • 部に昇格し、鉄道研究部となる

1972年度

  • 1972年の広島夏期合宿(『関西学院高中部百年史』より)


1971年度

  • 鉄道研究会として発足

Recent

Card image cap

2018年度1学期始業式が行われました

始業式が行われました。 枝川先生によるお話の後、新しく赴任された6人の先生が自己紹介をされました。 また、4/28の子ども会について、グループリーダー・当日スタッフの募集がなされました。

View details »

Card image cap

アッセンブリーが行われました

今年度最後のアッセンブリーが行われました。 先日のアッセンブリーで放送できなかった動画「突撃!インタビュー!」が放送されました。 また、水泳部、ESS、ゴルフ部、ディベートコンテスト出場者が表彰されました。 加えて、表彰 […]

View details »

2017年度スキー旅行最終日

報告 本日でスキー旅行は5日目、最終日となりました。ホテルを出て小樽に向かい、3時間のグループ研修を行った後、新千歳空港に向かいました。空港で最後の時間を過ごした後、飛行機に乗って大阪国際空港に帰ってきました。人生最後の […]

View details »