2007年度 学友会報告

会長 山本 竜平

どうもどうも、学友会会長を一年間見事務め上げました山本竜平でございます。学友会での活動やらなんやらを4000字にまとめあげろ。という無茶な要求をされまして、少々困惑している所存です。どうして私の会長としての1年を4000字でまとめろと言うのでしょうか?少なく見積もっても20000字は必要かと思われます。しかし、短くまとめる能力に長けていなければ会長失格だと思います。リコールを要求されてもおかしくないと思います。そろそろ本題へ向かいたいのですが、なかなか焦らすことが得意なのでまだまだこんな感じでのらりくらり続けていきますよ。それにしても、こういう文章に頭には「長いようで短かったこの一年間」と書く方が多いですよね。ザ・1年の締めくくりの文章といった感じでしょうか、こんな下らない(下らないという言葉の起源を話すと長くなりますよね) ことを私は書く訳にはいかないのです。中学の時も「長いようでやっぱり長かった」と書いた気がします(気がするだけかも)やはり私の人生において、人と同じことをするということはとてつもなく嫌悪感があります。人生を道の様なものだと私は思っています。私の家庭はそこそこ裕福(いわゆるボンボン)なので、元々引かれたレールみたいなものがあると思います。自ら道を開拓するまでもなく、なんとなく生きていてもそれなりに充実した人生を送れる恵まれた環境に生を受けました。しかし、私はそんな元からあるどこにでも転がっているような道を歩くのではなく、自分だけの他の誰にも真似出来ないようなかっこいい道を自ら開拓してその上を歩きたいと思いました。私は運動的なセンスはそれほどないので、運動部で全国を目指すという夢はありませんでした。というより何か一つに打ち込んだ青春ってどこにでも転がっているので部活には入りませんでした。確かに高校生清三年間でしか味わえない部活での楽しみや思い出っていうはあると思いますが、私には無縁なものでした。運動でも文化でも活躍出来そうにない私は、この学校のこの学年で1人しかなることの出来ない学友会の会長になることを決意しました。中学部でも会長をしていた私は中学部からずっと関学にいる人にとって会長=山本になるのでしょうね、本当に気の毒でなりません。話が逸れましたが、会長になる(つまり立候補する) ことを決めても選挙によって選出されるので、まだまだ不安が残ります。私の学年は会長候補が3人いましたが、私はその中で1番票を獲得しないと、会長にはなれません。選挙に至るまでに、立会演説会があります。私は中学での経験(壇上で喋る)を生かして、1番目立ち1番票を獲得してやろうと思いました。実は高1の後半くらいから立候補を目論んでいた私は練りに練って演説の原稿を仕上げました。票を獲得するために私が演説において大事にしたポイントがあります。1番印象に残す(オーディエンスに)ことです、会長の選挙で選ぶ理由なんて大体決まっているものなのです。部活の先輩もしくは後輩、友達、誰でもいい。とまあこんな感じです、幸い私以外の立候補者に部活に入っている人がいないので、部活の先輩後輩は関係無く、「友達」と「誰でもいい」をいかに私に入れさすか、ということになります。友達を突然増やす事は不可能なので、結局大多数を占める「誰でもいい」派の人間をいかに味方につけるか、ということが勝負の分け目になると私は確信しました。「誰でもいい」派の人間は誰がなってもいいので、1番印象に残った人に票を入れるのだと思いました。誰でもいいので、公約なんかは二の次だと思っているのだろう、と推測しました。私は自称エンターテイナーなので、ステージ (壇上) に立つからには何か客を楽しませなければいけない、という衝動に駆られます。忘れている方も多いと思うので、私がプランし、実行した演説会を文章で再現してみましょう。まず出てきます、出来るだけ低い声で自己紹介(内容は忘れました)そして第1のポイント、演説会の為に用意した原稿を取り出します(ここまでは殆ど普通)そして、「これは今日の為に用意した原稿です。一生懸命考えて練りに練りました。でもー・こんなものは必要ありません!今僕の中から湧き出てくる想いを伝えたい!」と言って原稿を千切り捨てました。すかさず本物の原稿を取り出して何もなかったように演説を始めました。ここでウケたので、実質この時点で私は勝ちを確信していました。やはりつかみは大事なのでここで塔けばエラい事になるな、と思っていました。しかし、出足だけ好調で尻すぼみな結果に陥ってしまったら出オチかコイツ、ってな感じでダメな印象が残ってしまいます。そこで私は中盤から終盤にかけて「学友会と生徒達との距離感が学校として一体になれない原因だと思う」と言いながら壇上から降りて歩いて演説をしました。ここで懸念することは歩いている最中に言うことが無くなり黙って歩いてしまうことです。なので、同じ事でもいいので大きな声でアクションを交えて歩きながら演説しました。ここでも成功したので、もはや負ける気がしませんでした。後は捲くし立てるように畳み掛けてスパっと演説を終了しました。盛大な拍手を頂いたので気持ちよかったです。結果は予想通り一位で当選しました。ここから実質私の会長としての道が始まった訳です。副会長は和泉に決まり、私達は学友会本部役員を選ぶことから始めました。
ということで私の思い出2007を今から開催したいと思います。やはり2007年という年は色々あってとても思い出に残っています。オリンピックイヤーでもなければワールドカップもありません。ワールドベースボールクラシックもありませんし、世界的にちょっと一休みといった感じの年だったのではなでしょうか、そんな素敵な2007年の思い出とは数え切れないほどです。1年を振り返りながら思い出を書き連ねてみたいと思います。そうね、やはり文化祭というものは私にとってとても思い入れがありましたのでとても印象に残っています。私個人としてMr.KGと司会とライブハウスと後夜祭とに出演しました。エラい出たがりやなあ、という印象をお持ちになられる方が多いと思うと胸が熱くなりますね。Mr.KGに関しては後輩の追い上げに敵わなかったとだけ言っておきましょう。それとバンドで出たステージはとても楽しかったこと以外には触れないようにしておきましょう。この投階でもはや私の会長としての報告なんて見る影も無いのですが、関係ありません。このままグイグイいきたいと思います。これまた年末の話になるんですが、私は「ちちんぷいぷ●」という関西ローカルの番組に出演しまして、なんでも「すべらない○○を持った高校生」を募集しているとのことだったので思い切って軽くメールを送ってみたところ、すんなり出演が決定致しました。私はオチを発表されながらも必死にすべらない話を披露して関西中の爆笑を誘いました。その結果見事関西ではその名を知らぬ者がいないというところまで名を馳せてしまいました。以外と思い出が少ないということに今更ながら気付いてしまいました。学校の行事に関して言えば一つだけという結果になつてしまいました。でも、行事だなんだと言ってはいますが、私にとってクラスのみんなと過ごした1日1日の1分1秒全てが思い出です。だから私は満足しています。ものすごい歯がゆい台詞ですね。こんなことを平然と言えるような人間になりたいと思っています。関西学院高等部を卒業して関西学院大学へと進むわけですが、私の未来には希望が満ち溢れています。高等部で過ごした3年間は、両手で数え切れる程のものを得ました、本当に感謝しています。
年から担任を受け持って頂いた中尾先生にはとてもお世話になりました。素敵な仲間と素敵な先生に囲まれて過ごしたこの時は私の人生の財産になるのかもしれません。
伊代はまだ16だから、と松本伊代は歌っていましたが、私はもう18です。もはや18解禁となり、大人の仲間入りです。高校生という肩書きも無くなり、いよいよ社会へと近づいてきています。とりあえず20歳になるまでは、竜平はまだ10代だから。と言いたいと思います。色々な方向へ話しが飛んでしまって申し訳ないですが、なんとなく伝わって頂けたなら幸いです。私の会長時代を知っている方にはこんな奴がおったなあと思い出せるような会長っぶりを発揮していた気はします。そんな気がしています。それだけで私は満足です。

 


副会長 和泉 翔

3年生だからね、と西重くんは答えた。そのとき、ぼくははっと気づかされた。そう、もう3年生なのだ。高校生としての生活は終わり、次のまた新しいステージに行かなければならない時期、それが迫っているということに西室くんの一口でやっとこ気づかされたというわけだ。
9月のことである。10月だったかもしれない。なんにせよ選択授業の「文学講読A(Bだったかもしれない。なんにせよ藤田先生と英米文学を読む授業)」を受けていたときのことだった。ぼくは西重くんが文化祭でインストゥルメンタルのステージ出演をすることを知り、なぜ今までやらなかったのかと尋ねたその答えが始めの、3年生だからねというものだったわけだ。
西重くんにしてみればなんとなく言ったのであろう一言をずっと覚えてそのうえこうやって書いてしまうというのには訳がある。副会長に立候補したときの気持ちがまさにそれ、3年生だからね、だったからである。
立候補したときはまだ2年生だった。どういうことかはわからないがなぜか文化祭で我がクラス2年G組はゲートを造ることになり、さらにどういうことかはわからないがなぜぼくが責任者をすることになった。たぶん人生の中でこういった「いつの間にかなってしまった」体験を持つ人は少なくないはずだ。自分から進んで手を挙げるタイプの人間にはわからないかもしれない。野次を飛ばすばかりの人間にもわからないかもしれない。自分で言うのも何だが、きっと人間関係に打算のない人にこの「いつの間にか」体験は起こる。そして、そういう人は何事も経験だ、と自分を納得させて頑張るものである。
そうやってぼくはゲートを造り上げた。さっきから造ると書いているが別に作るでも構わない。そんな大規模なものでもなかったし、だいたいぼくは造ったというよりも監督しただけで、実際の作業からはできる限り逃げ回った。大したことはしていない。語弊があるかもしれないから言っておくが、苦労がなかったわけではない。1週間前になってもまだ骨組みの投階からそれほど進歩しておらずかなり焦ったり、外に出す際に大きすぎて出せないんじゃないかと心配したり、ワイヤーが足りなくなって買いに走ってもらっている間みんなを引き止めておかなければならなかったりした。そういった流れの中でぼくはリーダーというか上に立って指示するというのは大変だ、と「文化祭当日までにできるかな?」という妙な関東弁の心配や「なんか今年のゲートしよぼい」という見たまんまの批判、本人が一番感じている不安ごとの指摘を受けることでひしひしと学んだわけである。
結局しょほくても「完成!」と大声で製作者たちが言えればそれでよし、であって、11月4日の片付けの日にはあーもうどうでもいいや、終わった終わった、とジーパンをはさみで切って進んでいた。つまり、喉元過ぎれば熟さを忘れる、ということわざの通り、だ。また「いつの間にか」体験があれば、何事も経験と言って引き受けてしまうのである。 で、山本に会長やんの? と尋ねると「やる」と言う。副会長に橋本龍太郎が立候補しているのかと思いきやしていない。そうか、じやあオレ副会長やろう。身体の割りに手のひらが大きい人はサブリーダーに向いているって手相の本にも書いてあったし、このままでは高校3年間でゲート造っただけになりそうだ、よし立候補しよう。
それらの考えが、3年生だからねという心境と被ること山の如しなのである。
そこからごちゃごちゃとあって、そこらのことは誰にでも書けるが、総会の話はぼくにしかできないだろうからとりあえず総会の話をちゃんと書いておこう。
実はほくは高等部生のなかでも「総会不要」派であった。この「総会不要」派というのは総会に対して希望を持っていない、タンクトップ許可? あほみたいな議題だして恥ずかしくないんか、生徒会−・という派閥のことである。ちなみに高等部は生徒会ではなく学友会であるが、そのことに固執しているのは先生だけである。あとヨット部は部ではない、ということに固執しているのも先生だけである。生徒の中でそういったことを気にしている奴はほとんどいない。
そんなぼくが総会を仕切ることになった。総会は文化祭と違って先生との連絡を必要としない。先生と喋ることが苦手なぼくにとってはそれだけが楽なことだった。裏を返せば、文化祭は先生と連絡しながらやっていかなければならなかったので、とてつもなく面倒だった。
詰まるところ面倒なのは「総会不要」派の存在なのである。この派閥は潜在的な人間も含めて高等部生の九割、いや九割九分を占めている。先生よりも生徒が敵なのだ。そういったことは二年生のときのゲート造りで学んでいたはずだった。無関心派とでも名づけられる存在にクラス全貞参加の名目上頼みごとをして辛酸をなめさせられた経験があったのだ。しかし、あのゲート造りでさえも無関心派はクラスの三分の一程度であった。それに辛酸をなめさせられていたというのに学校全体の九割九分では何をなめさせられるというのか。
なめさせられたものは「椅子にバスケットをつける」「テスト範囲一覧の配布」という驚愕の議題であった。反対とか賛成とかいう次元ではない。始めから「認められれば儲けもの」といった発想で総会は成うているのである。さらに、当日は発言しにくい雰囲気で、発言があったと思ったら否定的な意見ばかり、誰がこの議題を出したのかと問いたかったくらいだ。しかもやはり結果は賛成多数、議論の意味なし。いや、総会の意味は議論だけではない、業績報告や予算・決算説明がある……多くの人が寝ているのでとても静かでした。
それでも感謝したい人がいる。古田先生と中学部の高野先生だ。古田先生はアッセンブリー中の総会説明において、ざわざわしていた状況を打破する一声を発してくださった。それも「民度が低い」という深いお言葉であった。現在の日本を叱る声に聞こえた……。ちなみに、古田先生は総会後の昼休みに否定的な意見を述べていた高等部生に「ぼくはもっと環境破壊につながるという君の意見をばしばし言ってもらいたかった」とおっしゃっていて、さすが先生、地球規模で物事を考えてらっしゃる、一高校の変化が世界に何を及ぼすのかを見通すその眼力に敬服の念を禁じえない、とぼくは感激させられた。
中学部の高野先生には中学部の椅子をお借りした。写真も撮らせていただいた。今年の総会では工夫として議邁提案書に写真を載せてみたのだ。椅子も舞台に持っていって掲げてみた。それくらいはやろうと思ったのである。結果的に反響はゼロである。でもまあいいのだ。高野先生、ありがとうございました。
そこからごちゃごちゃなくて、ここらのことは誰も何も書けないと思う。何もなかったから。
4000字分書いてと言われて今で2500字。あと1500字、何を書こう。
文化祭と総会はどちらが忙しかったですか、と尋ねられたら総会ですときっばり断言できる。他人に任せるよりも自分でやるほうが楽だと決め付けていたせいで、全て一人でやってしまった。そういうのはだめだ。他人に任せて失敗が起きて、それで仕事が増えてしまうのは嫌だからといって他人に任せずにいてはいけない。他人に任せて失敗が起きてもいいのである。それもまた面白いことだ。人間は偶然の出来事が大好きな生き物で、偶然町でばったり出会うと運命を感じるし、偶然手に取った本が一生付き添う本になったり、偶然失敗した経験が成功につながるという成功者の体験談を好んだり、自分が設定した道から外れたほうが嫌なこともあるだろうが面白いことも同じくらいある。文化祭ではそんな感じ、自分でやることは自分でやって、他人に任せるところは他人に任せて、不都合が起きたら「あらあら」とか言いながら対処して、のんびりやって、上手にいかなくても腹を立てず、これが自分の力量だと当面は諦めて、今度やるときはどうにか自分の思い描いていたもの以上を作り上げられるよう努力しょうと思いながらやった。この「当面は諦める」ことが重要である。最大限の修復は試みるが無理となったら無理と諦める、これが重要である。人は腹を立てたら終わりである。周りにも不快感を与え、自分も気持ち良くない。こんな損なこともない。今回は残念でした、次回は別のアプローチをもって成功させたいと思います、これで充分。諦めることよりも重要なのが「次回頑張る」ことである。それも今回とは異なる方法を試す、反省を活かし工夫することが重要である。毎回挑戦、毎回勝負。負けてもまだまだ先はある。勝つべきときに勝てるように、今は負けてもいい。でも、早く勝ち方を知りたい。大学生の間に勝ち方を会得したいと思う。小さな声で言いますが、総会でも文化祭でも負けました。腹は立てなかったのでそれだけはよかったと思います。あとこういった考え方を持てたのは武者小路実篤のおかげです。
学友会活動を振り返るとそういったことが思い浮かべられる。自己批判し続けること。何が良かったのか、今後どう活かしていくのか。何が悪かったのか、では今後どうすべきなのか。身をもって学ぶこと。何事も経験なのである。悔しいが、何事も経験なのである。無駄はない。夏休みをごろごろ過ごしても無駄ではない。ただ得られるものが少ないだけである。その少ないものを得た、夏休みをごろごろ過ごした高校一年生の自分にかんばい(乾杯? いや完敗)
好きにランクをつけて5つ星、4つ星、3つ星……としていくと5つ星の中には中原中也、ロートレアモン、.山田かまちといった詩人やマキシマムザホルモン、ハイロウズ、エレファントカシマシといったロックバンド、そしてこの高校生清3年間を共に過ごした友人たちの名が挙げられるのだ。
N、M、H、Y、K、M、K、H、ありがとう。
人間万歳!

 


書記 西室 智文

どうも書記を1年間勤めさせてもらった西室弟です。大半の生徒は私が学友会役員であることを知らないと思います。私も自分が何の役職か忘れるときがありました。じゃあ何でこんな私が学友会役貞だったのかと疑問に思われる方もきっといると思いますので、いきさつを話そうとおもいましたが、原稿用紙が足りないので控えさせていただきます。
学友会に入っての仕事は数多くありました。私が仕事をした範囲で3つくらいなのですが、オリエンテーションキャンプ引率、アッセンブリーのパソコンのプレゼンテーション操作、スポーツ大会時に賞品のドリンクを運んだことです。とても楽しかったです。学友会の仕事はこんな風にとても中身があるもので、お勧めします。私にそんな重大な仕事を与えてくれたことに先生に感謝します。
学友会を簡単に振り返ってみますと、メンバーもなかなか個性豊かで私がそこにいることに飽きることはありませんでした。気がつけばあっという間に役員交代の時期がきました。
私たちの代は特にエンターテイメントにとんでいるとか、学校改革をしたとかそういうことがほとんどありませんでした。しいて言うならば、このマスタリーの完成度が例年では見られないような仕上がりであることが私たちの代が残せたものだと思っています。マスタリーの内容には私は一切関知していませんし、内容もほとんど把握してないのですが想像でそう言いたいと思います。
そろそろ私の学友会に対しての思いがつきてきました。こんな無駄な文章を読んでくれる人がいるのかと思うとあほらしくて笑ってしまいます。いまだにこの文章を書く理由が分かりません。しかし私は文章を書いています。この相反し矛盾する現実をあなたはどう受け止めますか?誰も興味をしめして見ないのであれば、何の記号でも文字でも書いていいんではないでしょうか。
次の数字の羅列は円周率です。
14159888321513755600372798394004159270028783076670944474560…
円周率はこのようにどこまでも続いていきます。ではこの円周率の存在はどういう意味なのでしょうか。そして人間の存在もどういう意味なのでしょうか。人間が生きてることが誰の役に立つのでしょうか。円周率もそれと一緒です。それでは、なぜ私たちは生きてるのでしょうか。お好み焼きがいつもと味が違うなと思って半分ぐらい食べ終わってマヨネーズを付け忘れていたことに気づいてちょっと残念に思うくらいのことなのかもしれません。それを最後に皆さんに問いかけたいと思います。

 


西村 和己

学友会報告

私はこのマスタリーをがんばって作りました、以上!

 


書記 3年B組 鹿田慎太郎

『学友会活動を振り返って』

この1年間、高等部の学友会役員として、学友会活動に参加させていただき、非常に感謝しています。顧問の八尋先生、三木先生をはじめ、各部署で様々な先生方に協力、支えていただき1年間やることが出来たと思っています。私が学友会役員をやらせていただく事になつた頃から、新役貞選挙、引継ぎまでを振り返り、学友会活動を振り返って、というタイトルで活動報告他、を書かせていただきます。
2006年11月下旬、2年生だつた私達の代の学友会選挙が行われた。結果、生徒会長、山本君、副会長、和泉君が当選した。他の役員は、彼ら2人が相談して任命する、という形であった。この学友会の組織の仕方は非常に面白いものだと思った。選挙が終わり、学友会を組織し始めた山本君に声をかけられた。
「学友会の書記をやらないか?お前のコンピュータ技術が必要だ。」
驚いた。高等部に入ってからというもの、クラブにも所属せず、校外活動も特にしていなくて腐っていた私に声を掛けてくれたからだ。確かに、パソコンはちょっとだけ使えるが、果たして学友会にとって必要とさせるレベルにあるのか、不安があった。また、普段だらけた生活をしており、周りからの印象もそんなに良くなかったはずの私が学友会役員になると、学友会全体がナメられてしまうのではないか、という不安もあった。そういった事が頭を巡った。山本君に、少しだけ時間をもらい、考えた。学友会の足を引っ張らないようにしなくては。必ず貢献する、良い学友会、そして良い学校を実現すると決心した。2、3日後、是非やらせてくれ、と返事をし、撞手を交わした。
山本竜平。彼との出会いは中学2年生のときだった。後から知ったことだが、小学6年生のときにすでに同じ塾に所属していたとか。関西学院中学に入学して2年経った頃、生徒会の選挙で私は企画広報部長という役職に立候補し、当選した。山本君は圧倒的なカリスマ性を放ち、生徒会長に当選した。その生徒会の中で私と山本君は共に活動した。高等部学友会の中で私と山本君だけが中学部生徒会役員の経験者。2人で力を合わせ、そこにさらに他の優秀な役員が加わると凄いことが成せるのではないか、期待は膨らんだ。
和泉翔。中学部時代からなんとなく知っていたが、同じクラスになつたのは高校1年生の時。とても知的で学業も優秀、そういった才能があるのにあまり他人のためには使わない人なのか、と思っていたが、ついにこの選挙で表舞台に舞い降りた。副会長という役職にありながら、会長、山本君の補佐にとどまらず、新たなプロジェクトを立ち上げ、周りから、特に顧問の八尋先生からの信頼は厚かった。みんなに頼りにされ、本人は相当大変だったのではないかと思う。本当に和泉君がこの学友会のメンバーにいなかったら、学友会は早々に破綻していたであろう。
学友会本部役員やアッセンブリー委員、クラス委員会、管理部、広報部など、この年の学校の中心となる役職に任命された人たちが徐々に明らかになってきた。みんな個性
的で優秀な人たちばかりだ。
新旧交代式、就任スピーチを終え、私達に最初に与えられた仕事は、1つ上の学年である3年生の卒業にあたっての、送別アッセンブリーだ。私達は、プロジェクトごとに責任者を決めて、その責任者が中心となつて他の役貞が補佐しょう、という形をとった。そしてこの記念すべき一つ目の仕事の責任者となつたのは、西室君だった。少し責任者を決めるための会議が長引くのではないかと思っていたが、会議の開始と共に西主君が、僕がやります、と手を上げた。
西室智文。何に対しても積極的で元気な奴。自分に厳しく他人に優しく、彼が任せられた仕事の中で妥協したものは1つもなかった。コミュニケーション能力に長けており、他の部署の担当生徒ともよく意見を交わす場面が見られた。あらゆる分野に精通しており、特に音楽に関しては、文化祭で弦楽器独奏を行ったり、すでに芸能関係の事務所から声を掛けられたりと、圧倒された。ただ、学業成績が安定しないのが玉に堆か。
そんな西主君が指揮を執り、送別アッセンブリーでは卒業する3年生が写っている今までの行事の写真をスライドショーで流すことになった。それに加え、山本君を主演とした短い映像作品も流すことになった。映像作品の編集を任され、顧問の三木先生指導の下、編集を行った。三木先生が丁寧に教えてくださったおかげでなんとか完成させることができた。その映像作品とスライドショー、そして、3年生に送る校歌で送別アッセンブリーは大成功、はじめて一緒に仕事をする役貞もいたが、これで一気に互いの距離が縮まったように思えた。
行事は次から次へと迫ってくる。卒業式では、会長の山本君が立派な送辞で3年生を送り、いよいよ私達は最高学年の3年生になった。
4月、新入生にまず関学高等部を知ってもらうための企画、として千刈キャンプが行われた。私達学友会役員もキャンプリーダーとして参加させていただき、新入生の指導にあたった。受験勉強を終え、だらだらとした新入生が入ってくるのかと不安があったが、彼らは皆まじめで元気で安心した。高等部もまだまだ安泰だな、と思った。このキャンプに平行して学友会本部役員の1泊ミーティングが行われ、一年間の計画が練られた。三宅君が進行役として、よくまとめてくれた。そして、2007年度学友会スローガンも、『ナンバーワンはオンリーワン』と決まった。勿論、会長の山本君の案だ。彼の関学高等部をナンバーワンの学校にしたい、という強い思いが感じられた。このミーティングを通して、八尋先生のことが少しわかった気がした。正直なところ、2年生の時の世界史の授業ではとても真面目で、難しい先生なんだろうと思っていたが、実際は違ったようだ。私達の出した意見、それも小さなものからちょっと冗談で言ってみたものまでほぼすべてに耳を貸し、知恵を貸し、掘り下げていってくださった。中学部の頃は、私達の意見はなにかと、すぐに「却下。」「はい、却下。」と芽を摘まれていったが、八尋先生はその芽に水をやってくださったと思う。実際、ちょっと冗談の混じった意見から出た、「突撃ティーチヤー24時』 という映像を使ったインタビュー作品に大きく貢献してくださり、アッセンブリーを成功へと導いてくださった。この一年間、この先生が顧問として面倒をみてくださるのなら、きっと大丈夫だ、と思った。
三宅達也。学友会役員になるために、サッカー部の第一線を退き、会計担当となった。運動神経抜群、そしてそのルックスの良さから、学友会を代表しての写真撮影にも行ってくれた。努力家であり、総合的に見て彼に勝る者は学友会の中ではいないだろう。自身の独学で忙しいにも関わらず、毎回の学友会ミーティングに顔を出し、的確なアドバイスを授けてくれた。
夏休み前、文化祭執行委員会とマスタリー編集局が動き出した。マスタリーとはこの本、高等部の学友会誌、イヤーブックである。マスタリー編集局長に西村君が就任し、本
格的に動き出した。彼はすごかった。私の想像をはるかに超えたマスタリーとなつた。その理想の高さから、度々、顧問の八尋先生との衝突が見受けられたが、その生の意見のぶつかり合いから、この最高のマスタリーが完成したのだと思う。夏休み中には、あのオリックスグループの最高経営責任者であり、プロ野球オリックスバッファローズのオーナーでもおられる、宮内義彦さん他、関学を卒業された偉大な先輩方へのインタビューに成功し、マスタリーを盛り上げた。是非その項も読んでいただきたい。
西村和己。学友会総書記であり、学友会のブレインである。山本竜平とは一味違った独特のオーラを放ち、人々を魅了する。非常に文学的で知識が幅広く、あらゆる面から学友会に息吹を吹き込む。私の一方的ライバルであり、将来が非常に楽しみな人間の内の1人である。
夏休みが明けると、すぐに文化祭執行委員会があわただしくなりはじめた。文化祭執行委員長の神中君を中心として本部役員からは和泉君も加わり、執行委員会とした。文化祭に関しては、一歩さがって客観的に見守るという形だったので、中身のことは文化祭の項を読んでいただきたい。外から見ていると、とにかく一生懸命であった。ステージや食品、ライブハウスなどそれぞれの担当の人がとてもよく頑張っていたと思う。そこには神中君の人望も大きく影響していただろう。結果、文化祭は大成功。テーマ通り、まさに極まった、と思った。本当にお疲れ様でしたと言いたい。
神中康多。高校一年の時に共にコミティをしてからの仲。2学期には留学し、さらに大きくなって帰ってきた。学友会の活動にはほぼ全てに参加、子供会、ボランティア活動、そして文化祭までとても多くの仕事をこなした。
文化祭が終わるとすぐに学友会会長選挙の公示。私達の最後の仕事が迫ってきた。本当にあっという間の一年間でした。とても充実した、1年。冒頭でも述べましたが、そこには多くの先生方、そして学友会会員、つまり生徒みんなの協力があったからと思っています。心から感謝しています。
この学友会は解散し、役員それぞれが違った道に進んでいくことでしょうが、いつかまた、一緒に仕事が出来ることを楽しみにしています。次期役貞、そしてその次の役員も、この関学の伝統を守って、学校の中心となり、よりよい学校を築いていって欲しいと思います。まとまらない文章でしたが、活動報告とさせていただきます。

 


会計 神中 康多

私が学友会に入ろうと思ったのは、2006年の文化祭がきっかけでした。
l年生の夏から1年間、中国に留学し、2006年の2学期から関学に復帰し、その直後から先輩に誘われて、文化祭の執行委員になり、そこで学友会の先輩と出会いました。
「学友会とかやってみーへんの?」
ちょっと示唆されただけだったけど、子ども会や次の年の文化祭など、行事に関わるのが好きだったので、留学先の学校で副会長をやっていたのも手伝って、文化祭終了直後、会長選挙に立候補しました。
会長選挙には落ちましたが、結果的にはよかったと思います。今年の学友会の会長には類まれな能力があります。会長として大勢の前で話す、壮行会などの大事な場面での会長からの言葉など、自分には到底できないパフォーマンスを繰り広げる会長。尊敬します。他にも書記の達人や高校生とは思えない知識人など、今年の学友会のメンバーは個々の能力が高く、個性的でした。
学友会としての主な仕事といえば、やっぱりアッセンブリーです。毎週火曜日に、当たり前のように行われるアッセンブリーですが、それはいくらかの準備を経てやっとできたもので、礼拝委員やアッセンブリー委員はもちろん、大会やコンテストなどで活躍して壇上に上がってきてくれる人や、それを聞いてくれて拍手を送ってくれる人など、高等部生全貞によって成り立つものです。関学高等部の先人たちが築いた自治の原点がこのアッセンブリー、自分たちがどれほどできたかいささか不安でもあるけど、自分たちとしてはうまくやってきていたと思うので、今は達成感もあります。
あと、自分にとって1番重要だったとも言えるのが、やはり文化祭です。こんな自分ですが、去年の文化祭を経験していたということもあり、執行委員長を務めることになりました。
委員長としての最初の仕事は、本部のメンバー集めでした。子ども会終了直後から働きかけ、6人の本部メンバーを集め、さらに最終的には36人となつた執行委員を集めました。最初は顔も初めて見るメンバーもいましたが、最後には一敦団結して文化祭を乗り越えることができたと思います。1学期の時から少しずつ活動していましたが、夏休みには本部メンバーで合宿し、文化祭までの大まかな骨組もつくりました。2学期に入ってからは、初めの頃はこちらから働きかけて動きを呼びかけていましたが、やはり僕たち執行委員会はあくまで土台を作るだけで、主役は関学高等部の生徒のみんなです。しだいに各団体のメンバーが自分たちから自主的に動くようになつていく様は、さすが関学生、と思わざるをえないものだったと思います。
文化祭の準備では、やはり高等部ほど人数が多いと、いろいろな個人の事情も絡み、なかなか予定通りには辛が進まず、四苦八苦したことも多々ありました。それを補うように働いてくれたのが執行委員会のみんなであったり、それぞれの団体の責任者であったり、とにかくたくさんの人に支えられての文化祭でした。
これは自分のクラスのことになりますが、自分自身は執行本部に入っているのでクラスの活動にはあまり参加しませんでした。その中で、クラスの文化祭の責任者として名乗りをあげ、3日の本番には参加できないとわかっているのにも関わらず、最後まで真剣に一生懸命クラスに呼びかけるサッカー部の生徒、そしてそれを支えるクラスの友達たち。それをずづと見ていて、本当に尊敬したし、感謝感激でした。
文化祭の本番は、関学高等部生の持つ活気にも助けられ、無事成功を収めることができたものと思っています。反省会では、長い間の重圧に解放されたからか、涙が止まらなかったです。何度も言うようですが、この成功は執行委員ではなく、高等部生全員によって初めて得たものです。なので、この場を借りて、一言感謝したいと思います。ありがとうございました。
ちなみに、これは文化祭の裏話ですが、2007年度の文化祭のテーマ「極〜kiwami〜」は、6月26日の火曜日の放課後、物理階段教室で、本部役員7人で話し合って決めたものです。関学高等部生それぞれに、何かを極めてほしいと思って考え出したテーマですが、偶然にも、第8回J.C.C.Newton賞のテーマと同じでした。
「Newton賞のテーマをバクってきたんちゃうか?!」
という声もちらほら聞きましたが、これは本当にまったくの偶然。僕自身、数日後に図書室で本部meetingを行った時にNewton其の存在を知ったくらいで、他の執行委員も大同小異、テーマが「極」だということなんて全然知らなかったのです。一連の学友会活動で得たものは、責任感だと思います。もちろん他にもあるけど、責任感、これは必要だと痛感しました。他の誰かじゃなく、自分たちでやらなきやいけない、自分たちがやらなきやいけない。多方面からの助力はもちろん必要不可欠でしたが、自分たちがやらないと何かがストップしてしまう、だから自分たちが率先して動く、それが学友会役貞の役割だと思いました。
去年の会長立候補から早1年、今度は自分が選挙立候補の受け付けに座ったという事実に、少しばかりの違和感を覚えました。同時に、時間の経過の早さばかりが身にしみます。
大人がよく言う言葉。
「今年は時間が過ぎるのが早かったなあ。」
これはなぜなんでしょうか。僕たちも、毎年のように同じことを言い、そして次の年にも同じことを言っている気がします。
誰かが言っていました。
「充実してるからだよ。」
充実しているからこそ、同じ時間を生きているのに、倍以上の速さで時間が過ぎていくように感じる−。今の自分から出せる、精一杯の答えです。
何かに夢中になっていたら、時間なんてあっという間にすぎる。それと同じこと。とても単純明快な事実です。
では、僕もまた、充実した1年間を過ごせたのでしょうか。そうだと思います。思えば2006文化祭「青嵐」、子ども会、2007文化祭「極」と休む間もなかったけれど、それは同時に自分がとても充実した、他の学校ではとても経験できないことを実際に経験できたから、とも言えます。
とにかく、留学していた1年間も含めて、充実した関学高等部での3年間を、助けてくれたみんなに感謝したいと思います。本当に、ありがとうございました。


会計 三宅 達也

『学友会活動を振り返って』

僕は今年度の学友会の本部役員として会計の役職に就きました。仕事を終えた最初の感想としては、この1年間は僕にとってとても有意義なものであり、何よりもまず1年が過ぎるのが早かったということです。こんなに時間が過ぎるのが早かったのは人生で初めてだと思います。学友会に入ったことで僕の人生観も大きく変わったし、自分の知らない世界をたくさん見ることが出来たと思います。今まで接したことのなかった生徒や先生とも関わりが持てたことはとても良かったのではないかなと思います。会長・副会長のもとで学校内を忙しく走り回ったことがついこの間のように感じ、懐かしい気持ちでいっぱいです。
ここからは、僕が何故学友会に入ることになつたかを書いていこうと思います。僕はもともと会計関係の仕事に興味を持っていました。将来的には公認会計士や税理士などの資格検定に合格し、そのような仕事についていたいと思っています。選挙によって今年度の学友会の会長が山本、副会長が和泉に決まり、その他の学友会の役
職もどんどん決まっていきました。僕は山本に無理を言っ′て会計にいれてもらいました。このことには理由がありました。
僕はもともとサッカー部に所属していました。僕はサッカーが好きで小さい頃からずっとやっていました。しかし、学友会に会計という仕事があるというのを知って、それの方に意識が向き始めました。新しい世界に飛び込んでも大丈夫なのか、ここでサッカーをやめてしまっていいのか、とても悩みました。悩みに悩んだあげく僕は新しい世界に飛び込むことにしました。ちょつと大げさかもしれないですが、僕にとっては大きな転機でした。後悔も何度もしたけれど、自分が選んだ道だから責任をもって進んでいこうと言い聞かせてきました。どちらの道が正しいかったかはわかりませんが、僕はどっちに進んでいてもよかったと感じています。
学友会のメンバーがまず協力して行った行事は、春休みにあった新入生歓迎キャンプです。前日から千刈に泊り込み、1年間の予定やスローガンを決めました。あんまり知らなかった学友会メンバーと一緒に話し合い、ご飯を食べ、トランプをして1夜を過ごしたことは思い出です。まるで合宿みたいでとても楽しかったです。
そして次の日に新入生を向かえ、他の3年生リーダーとともに楽しく過ごせました。1年生ともうまくコミュニケーションをとることが出来たし、キャンプを無事に終わらせることが出来たと思います。終わった時、今までとは違う達成感を味わいました。
そして新学期を向かえ、アッセンブリーでみんなの前で今年度の学友会紹介がありました。僕の周りは僕がまさか学友会をやるなんて思ってなかったらしく、とても驚いていました。初めて礼拝堂の前に立って、自分達が学校を仕切っていくのだなと実感したこと覚えています。
初めて僕自身が責任者となって行ったのが、1年生に対してのクラブ紹介です。各クラブの代表者からクラブの紹介文を預かり、それをパンフレットに仕上げました。表紙
も友達に依頼しとても良いデザインのものを作ってもらいました。決してたいしたものではなかったのですが、やりきることができて一安心しました。
総会ではあまり意見が出ず、今年の学友会大丈夫かと声をかけられました。正直どうしていいかわからず行き詰っていたときもありました。メンバーそれぞれがやりたいこと、やっていることを持っているので集まりが悪いときもありました。でもそこは山本の統率力というかそれなりの会長の力で保てていた部分もあると思います。人前で何でも出来るあの度胸と優れた笑いのセンスは関学一ではないでしょうか。頼りにならなさそうでも実はめっちゃ頼りになる、そんな存在だからこそみんながついて行くんだと思います。あんまり褒め過ぎるとだめなんで次は文化祭について書こうと思います。
文化祭は主に文化祭執行委員という組織が仕切ります。神中が中心となって運営してくれました。僕はステージに出演する方でその準備が忙しく、執行委員には入れませんでした。そんな迷惑をかけていても、文化祭を最後までしっかり計画し実行してくれたメンバーにとても感謝していています。おかげで出演する方は何も気にすることもなく楽しめました。裏方の仕事がきっちりしてくれていたからこそ今回の文化祭が楽しく、成功できたんだと思います。本当に感謝しています。
学友会に入ったことで人間性が少し変わった気がします。新しい発見もたくさんあり人生に大きく影響を与えてくれたのが学友会だと思います。会長の山本、副会長の和泉、書紀の西村、廣田、西室、会計の神中。みんなそれぞれいいとこがあり、それがうまく重なつて素晴らしい学友会が出来上がるんだと思います。1年間学校を仕切る立場にたって学校を1つにしようとして学友会一同頑張ってきました。「ナンバーワンはオンリーワン」というスローガンに基づいて骨それぞれが1位になつてそれをみんなで褒め称えようとしてきました。学友会としての活動を終えたからこそ今よかったなって思えることがたくさんあります。学友会メンバーには感謝しています。また八尋先生や三木先生を始めたくさんの先生方にもお世話になりました。本当にありがとうございました。
(MASTERY 第27号p104-120)

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